ティダぬファ~『WATARU』

毎日が旅だったらいいのに…

「おつとめ ご苦労さま」

2018.6.2    15:00


監獄食堂で腹を満たした後、
ゆっくりと観光の開始。


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(博物館 網走監獄の駐車場への入り口)


『この「博物館 網走監獄」は
 明治時代から網走刑務所で
 実際に使用されてきた建物を
 保存公開している野外歴史博物館です。


 最も古いとされる建物は
 今から109年も前の建物…

 2年前の平成28年には
 いくつもの建造物が
 登録された。


 現在とは違い
 木を製材するのも機械を使わず
 手作業で行った時代…

 太い梁や柱には
 囚人たちが削った痕が
 荒く残っている。  』

(※HPより引用)



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この網走監獄の正門は
現在の刑務所と同じ形だそうだ。


正門をくぐり正面に建つのが


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「旧網走監獄 庁舎」

国指定重要文化財です。


紋章入りの破風をのせた正面車寄せ、
押し上げ式の窓…など、
明治初期に
学校や官公庁などにみられた建築様式。

一見、
洋風建築だが
鬼瓦や瓦屋根に和の要素が見られる。

監獄の管理棟として使用された建物。


現在、
この旧庁舎内では
囚徒が切り開いた北海道開拓の歴史や
重要文化財の見どころなどを紹介する
展示コーナーとなっている。


広大な「網走監獄」内を廻る前に
まずはこの庁舎で予習ですな(*^。^*)




鎖国を解き、
近代国家への脱皮を目指し邁進する
明治新政府にとって
切実な問題があった。


それは
北海道がロシア帝国の脅威に
さらされていること…。


ロシア帝国の南下政策に危機感は強く、
北の防備を固めるために
開拓を推進することを
新政府は急務としていた…



厳しい自然環境である北海道で
未開の地を切り開くには
とんでもない労力と時間が必要になる…

一体どうやって北海道開拓が
推し進められたのか…??


明治新政府はこの事態に対して
ある政策を打ち出した。


屯田兵」「植民」「囚人」
による開拓を進め、
北海道をロシア帝国から護る…
というものだった。


開拓の先兵として注目された人は、
当時膨大な数に膨れ上がっていた
長期重罪囚…

囚人だった(@_@;)



『元々彼等は暴戻の悪徒であり、
 尋常の工夫では耐えられぬ苦役に充て
 これにより斃れても
 監獄費の支出が減るわけで
 万やむを得ざるなり』


この発想は、
太政官(だじょうかん)
(※当時の最高行政機関)
にいた人物が囚人の苦役論を謳ったもの。


この発想から、
廉価な労働力で北海道開拓を進め、
刑を終了した囚人たちが
開拓した地に住み着くことで
北海道の人口増加を促進する…


論理的な思考…と
言うべきなのかどうか複雑(;一_一)


元々凶悪な罪を犯した
長期重罪囚たちは
膨れ上がるほどの人数がいる…


政府は
樺戸・空知・十勝・釧路・網走に
分館を持ち、
そこへ囚人たちを送り込み、

後に釧路から1200人の囚徒を
網走に移動させた…。



これが
網走監獄の始まりだった。


網走監獄の囚徒たちに与えられた工事は
北海道を横断する中央道路を造ること。

与えられた工期は
たったの8ヵ月。


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この与えられた工期を守るため、
工事は強行された。

山や原野だった場所を
重機も無く人の手で切り開く…

過酷な突貫工事に
食糧や栄養不足、劣悪な衛生環境が
囚徒たちの命を奪い、

囚徒211名、現場の看守にまでも
犠牲を出した。


1115人の網走監獄の囚徒たちは
網走から北見峠までの
162.7キロという長さの中央道路を開削。


13の工区を
4班に分けた囚徒200名ずつに
競争させた結果、
1区画12㎞の距離を
わずか1ヶ月以内で完成させる
驚異的な速度で道が造られていった。


…この道路の完成から23年後、
工事の犠牲者を祀る慰霊碑が
所内の山に建てられた。


囚徒と看守を共に供養している刑務所は
網走以外に他には無いという。


道路の開削と同時に
道路沿いに2000本の
桜の木が植樹されていた。


明治初期に
囚人たちにより造られた道路…

この道路ができたからこそ
北海道は発展することができた。


長い年月が経過した今日…

極寒の冬を乗り越え春が訪れると
この道路は桜咲く美しい道となる。


重罪囚徒たちの苦役は
後世に生きる僕らにとって
有り難い「道」として今に残る。


網走監獄の始まりを知った
旧庁舎だった(*^。^*)


冗談で言う言葉ではないのだろうが…

囚徒たちに

「おつとめ ご苦労さま」

って、
手を合わせたくなる自分がいる。


☆☆ チュプカムィの航路より ☆☆