ティダぬファ~『WATARU』

毎日が旅だったらいいのに…

登録有形文化財を造ったのは囚人たち

2018.6.2    15:30


【博物館 網走監獄の続きvol.2】

旧庁舎に続き、
この所内にある

登録有形文化財」を(*^。^*)



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まずは前回記載した
監獄の正門と並行して建つ

1、「裏門」

大正8年に着工し、
その後5年の歳月をかけ
受刑者がこつこつと煉瓦を積み上げ
大正13年に完成したという
全長1090メートルに及ぶ塀。

以来
平成5年の9月までの70年間にわたり
網走刑務所裏門として
受刑者が塀の外の作業(農場.養豚場等)へ
出掛ける時に通った門。

受刑者にとっては服役中であるが
この門をくぐると外に出られ、
解放感を味わえる門だっただろう。



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2、「哨舎(しょうしゃ)」

監視機能を担う所内に4棟ある哨舎は
どれも六角形で同じ外観をしている。

小品ながらも
さっぱりとした外観であり、
貴重な遺構となっている。



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3、「煉瓦造り独居房」

明治時代、
明治の監獄則にのっとり、
監獄内の規則を守らない者には
食事の量が減らされて
一定期間の生活をさせる罰があった。

窓がなく、
一切の明かりの取り込みを拒絶した
暗闇構造となっている。
独居房での生活は
受刑者にとって辛い生活だったそうだ。


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独居房の横に建つ「懲罰房」

独立型の独居房…で、
「闇室(やみしつ)」と呼ばれていた。

獄内規則を犯した受刑者が
7昼夜重湯のみが与えられて
入居させられたという。


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こんなふうに
反省していたのだろうか…?



上記の
「裏門」と「独居房」にみられる
瓦や外壁煉瓦は
全て網走監獄の所内で造られたもの。



網走監獄は
明治42年の大火により
殆どの建造物が焼失した。

大火後、
3年の歳月と
述べ人数269.512人の囚徒により
復旧工事がなされた。

屋根瓦は新潟から買い付けられたが、
輸送費が高価なため
明治45年に煉瓦工場を新設し
自家製造を行ったという。


この博物館で
展示公開されている建造物は
日本の行刑史及び開拓史上
とても貴重な存在らしいです。



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「刑務所水門」



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「味噌蔵」の屋内にあった巨大桶

経費節減のため
自賄いを要請される監獄では
創立間もない明治25年に
約100平方メートルの工場が建てられ、
味噌、醤油が自給されていた。


僕の背負っていたリュックサックは
27リットル容量の
決して小さくはないものだが、

画像に写る醤油桶は
とんでもない大きさだった(@_@;)

しかもその大きな桶がいくつも…


1200人前後の収容数というのだから
そりゃ~自賄いで造られる量も
半端ないものになるでしょうな…



☆☆ チュプカムィの航路より ☆☆