2018.6.2
【博物館 網走監獄の続きvol.3】
他の観光客が
「うわぁ~!怖い!!」
…と、
驚く声をあげていたこの建物。
『休泊所』
受刑者が塀の外に出て
日帰りできない作業をする場合は、
休泊所と呼ばれた仮小屋で寝泊まりをした。
以前の記事で記載した
網走から札幌へと続く
「中央道路開削工事」では
延べ1200人の受刑者が投入され、
工事の進行にともない
休泊所を解体しては移動していった…
別名を…
「動く監獄」 (@_@;)!!
リアルな囚人模型が
休泊所内に多数!!!
もちろん
同じ屋内で
看守の目も光っていたことだろう…
監獄作業の種類は
基本的には農工芸だったが、
明治初期においては
瓦つくり、煉瓦つくり、鉱山役夫など
汚れ仕事が懲役人に相応しい…
という考えが支配ていて
工業の未発達な明治20年頃までは
道路開削、石炭採掘といった
産業開発のブルドーザー的役割を
囚人が果たしていた。
休泊所は
丸太で組まれ屋根は茅葺き。
どんなに遠く離れた所でも
短期間で自分達の寝泊まりするところを
確保しなければならない。
現地調達の丸太や茅で
大急ぎで建築し、
作業が終わるまでは
その小屋で寝泊まりをしていたという。
食事ももちろん自炊。
当時の囚人たちの食事は
麦ご飯に3切のたくあん、
葉っぱが
申し訳程度に浮かんだ味噌汁のみ。
囚徒ひとりひとり
受刑者番号は彫られた木箱…
どの囚徒もこの同じ形の容器に
同じだけの麦ご飯がよそわれた。
朝から晩までの重労働、
粗末な食事、
はむかえば厳しい責めと懲罰房が待つ。
何よりも恐ろしいのは
吐く息も立ちどころに凍らせてしまう
冬の極寒地獄…
そしてその極寒の地で
布団1枚しか与えられず…(;一_一)
急速な北海道開拓を至上目的とした政府は
北海道集治監全囚人の労働力を
農地開拓はもとより、
過酷な開拓工事に次々と投入していった。
明治26年
北海道集治監に送られた罪囚は
7200人以上と最も多く、
予算不足で囚人給与は
引き下げざるを得なくなった。
栄養不足から病気になる者も多い中
自給自足の理念を更に強化させ
作業時間は増加する一方となった。
それが囚人の反抗心を
かき立てる結果となり
逃走が頻繁におこり…
その結果、
警備は銃と剣による厳重なものになった。
明治30年までに
北海道集治監囚人の死亡者は…
2481名に達したという(@_@;)!!
極寒の地において
囚徒たちが着ていた囚人服…
明治以降の囚人服は
全て官からの貸与となり、
「官房衣」と「作業衣」に
区分されうようになった。
服の赭色(しゃいろ)は
※赤褐色・あかつち色
ベンガラ質の赤い土に
薄渋を加えて染めるとと出る色であり、
これが囚人を
「赤い人」
と呼ぶ由縁なんだとか。
☆☆ チュプカムィの航路より ☆☆