2018.6.2
「博物館 網走監獄」の
建造物についての記事は
前回で終わりましたが…
おまけ
…みたいな記事を(^。^)
時は過ぎ…
第二次世界大戦が勃発してからのこと…
昭和の初頭、
戦時下の日本、
網走刑務所の受刑者たちは
飛行場建設において大活躍した。
海軍航空隊美幌飛行場、
女満別飛行場に続き、
東洋一といわれた
テニヤン飛行場の建設にも携わった。
技術に優れ、
体力もあった網走刑務所の受刑者たちは
飛行場建設のエリートとして
知られていたそうです。
テニヤン飛行場建設のため
全国から集められた
365名の受刑者のうち
網走の受刑者が136名もいたそうだ。
テニヤンでは
通称「熊部隊」と言われた
網走刑務所の部隊が最も手慣れていて
特にダイナマイトによる爆破作業と
整地作業は抜群だった…
と、伝えられている。
戦局が悪化すると
網走刑務所の受刑者部隊も戦禍を被り、
アメリカ軍に接収された
テニヤン飛行場からは…
原子爆弾を搭載した
「エノラ・ゲイ」が
広島に向かって
飛び立つことになってしまった…。
国の命令で
償いとして体を張った結果、
造り上げた飛行場は
他国にのっとられ…
汗水流して造り上げた場所から
自国に原爆投下をさせる機体が飛び立つ…
戦時下であり
熊部隊と言われた
受刑者たちは
受刑者たちは
自分達が
汗水流して建築した飛行場から
原子爆弾を搭載した飛行機が飛び立ち
自国に原子爆弾が投下された…
という事実を
知っていたのだろうか??
もし、
それら全てを知ったのなら
どんなに
極悪な罪を犯した受刑者であっても
同じ日本人…
きっと
言葉にならない思いだっただろうな。
☆☆ チュプカムィの航路より ☆☆