ティダぬファ~『WATARU』

毎日が旅だったらいいのに…

敵同士になった兄姉妹の反乱


…とある御嶽の学び(^v^)
 
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『真乙姥御嶽』
「マイツバオン」や
「マイチィバーオン」と呼ぶ。
 
この御嶽(オン)には
周囲の四ヶ字地区の
(石垣・登野城・大川・新川)
五穀豊穣の神様が祀られている…
ということで
 
毎年旧暦の6月に
豊年祭の「ムラプールィ」が
執り行われている。
 
沖縄県の各島々のあちらこちらで
「豊年祭」「豊漁際」が
執り行われているが、
 
この真乙姥御嶽は
農業を潤わせた神様の御嶽として
崇められているのだそうだ。
 
御嶽の名前の「真乙姥」…
 
このマイツバさんは
1500年に勃発した
あの有名な「オヤケアカハチの乱
が起こった時代の女性。
 
色々調べてみると…
いくつかの登場人物がいるので、
まずはその方々の紹介から(*^。^*)
 
波照間島出身で石垣島へ渡り
人頭税を巡って反乱を起こした
石垣島大浜地区の豪族で
反乱軍の英雄
 
「長田大主(ナータフージィ)」…
波照間島出身で子供の頃に石垣島へ移住
オヤケアカハチに弟2人を殺され
首里王府にアカハチの企みをチクり、
王府に加担し
後に石垣島頭職の地についた豪族
 
「真乙姥(マイツバ)」
長田大主の妹
古乙姥の姉
 
「古乙姥(クイツバ)」
長田大主の妹で真乙姥の妹
そして、
 
…と、まぁ
一家の兄姉妹と
オヤケアカハチが関わります。
 
 
さて…
「真乙姥御嶽」についてはここから
 
 
1500年に
オヤケアカハチの乱が勃発する前に
当時の島人にはとても重たい税が
課せられていたことに対し
 
アカハチは王府に対し
反乱を起こそうとしていた。
 
同じ波照間島出身だった
長田大主(ナータフージィ)は
当時オカハチと同じ石垣島に住んでおり
 
アカハチに
反乱を起こさず島へ帰るように
説得をしたのだが…
 
逆にアカハチに
ナータフージィの弟2人が
殺されてしまったという。
 
ここからが
アカハチとナータフージィの
争いの始まり…
 
怒りのあまりに
ナータフージィは
アカハチの企みを知っていたので、
当時の中山軍(首里王府)に
チクったわけですな。
 
そして
自分の妹である
「古乙姥(クイツバ)」を
自分自身に加担してもらうために
オヤケアカハチのもとへ嫁がせた。
 
ウヒョ~!! (@_@;)
政略結婚だぁ…。
 
ところがドッコイ…
 
古乙姥さんは
マジでアカハチを愛してしまい
ラブラブな夫婦になっちまった~
 
・・・
 
して…
 
 
結果的には
首里王府軍がアカハチを制圧し
 
アカハチも妻の古乙姥さんも
殺されてしまったという。
 
ナータフージィにはもう1人妹が…
 
その人が
「真乙姥(マイツバ)」
 
真乙姥さんは
妹の古乙姥とは逆に
兄であるナータフージィに
従い加担した人
 
…というよりも、
王府軍のために
祈りを捧げた人。
 
真乙姥さんは
オヤケアカハチの反乱鎮定後、
王府軍の海路の無事凱旋を祈って
石垣島の美崎山にこもって
祈願し続けたという。
 
その功績により、
真乙姥さんは当時の王様であった
尚真王から高級神女職といわれる
「大阿母職」を授けられたが
 
真乙姥さんは固辞したらしい。
 
その代わりに
イラビンカミ神という神様に仕える
「永良比金(イラビンガニ)」
という神職を拝命した。
 
その神職を授かった真乙姥さんが
祀られているのが
名前のごとく
「真乙姥御嶽」
 
尊敬を集め
神職の役目を全うした真乙姥さんは
多くの人々から崇拝されるようになった…
 
その他にも
現在のベトナムから授かったという
良質の穀類の種により、
 
石垣島の農業が潤った…
という話から
 
真乙姥さんのお墓が拝所となり…
 
その拝所が御嶽となり…
 
御嶽の神は五穀豊穣の神である…
 
として、
真乙姥さんの死後
神体化されて崇められている今日。
 
現在残されている
御嶽となったわけなんですねぇ~。
 
チョー面白い! (*^。^*)
こういう歴史の話、大好き。
 
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イメージ 3
 
(画像はHPより)
 
今でもこんなふうに
盛大に豊年祭が行われている。
 
御嶽の色々を知ると、
この場所の豊年祭を直接見たくなる。
 
 
…まぁしかし、
 
ナータフージィとオヤケアカハチ
同じ島の出身者同士が、
 
ナータフージィの妹である
真乙姥と古乙姥の姉妹が、
 
軍の力と、
島の村人の反発で
勃発した考え方の違い1つで起きた
 
 
肉親である兄姉妹と
敵味方となってしまった兄姉と妹…
 
当時は
殺し合わなければならない
そんな時代だったんですな…(-_-メ)
 
☆☆ 海亀好きの航路より ☆☆